映画「七人の侍」 死に場所を探す負け組の男たちの最後に見た夢①

日本映画

 黒澤明監督の映画を見渡すと、とにかく「男たち」の魅力が満載です。女性がメインの映画は皆無。女を描いたら一番といえば、溝口健二監督でしょう。
 では黒澤はなぜ「男たち」が得意なのでしょうか。
 男性は、現代産業社会でも戦国時代でも、始終、組織のパーツとしての生産性が問われます。
 「お前は何の役に立つのか?」
 現代では産業社会において女性も同じ。
 戦国時代を描いたこの「七人の侍」では、この七人はまるで将棋のコマのようです。「玉」「飛車」「角」「金」「銀」「桂馬」「香車」。一人ひとり完璧ではない。何か欠けている。あれができればこれができない。しかし、その欠けているところがかけがえのない良さ・強さになるときがある。
 この両面で七人が非常にキャラ立ちしています。腕だけではありません。この野武士相手のいくさに参加しようとした動機もそれぞれ。
 戦い方が異なるそれぞれのキャラを盤面に縦横に配置して動かしまくる美しい「動」の絵の世界。躍動感のある絵のためには「男たち」であることが必要だったのです。
 
 このきれいな図式づくりに多大な貢献をしたのが、4人の脚本チームでまとめ役を果たした年長の小国英雄です。
 この人とにかく将棋の天才で、盤を見ずに何人もの相手に打てる。その能力を生かして、話しの筋あわせ、人の動機と行動を深く適合させることに並々ならぬ欲望をもって黒澤はじめ、他の3人の話のアイデアを競わせます。
 人がそう行動する理由を明らかにせよといちいち指摘する声が聞こえてくるようです。
 
 劇画チックで図式的で分かりやすい。しかしこれが、三島由紀夫は気に入らない。
 「黒澤映画の思想性は中学生並み」とけなしましたが、文芸と映画では持ち場と対象者の幅が違うので、物語のところだけ指して批判してもなあ、と思います。
 映画はとにかく絵にならないといけない。読者の鑑賞力に頼れない。2時間ほどで一気にみせなければならない。力のある読者を想定してゆっくり味わってもらう文芸との違いかと思います。(続く)

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