物語を書くっていうのは、とつとつと湧き出すように出てくる言葉を、湧き出すまま書きつけているのだと思っていました。
そのうち、小説といってもそれは書き手が意図する入念なる計画の下に数々のパーツを組み合わせて作りだした「言葉の建物」だと知って、書くのはたいへんなことだとさらに思いながらも、人間の作る「作りもの」であるには違いないと、何か落ち着いた気持ちにもなったのでした。
物を作るというのは最低限、手順というものがあり、それに従えばある程度のものはできるということです。
しかし、です。
そんなものは面白いのだろうか。
本書で巻頭を飾っているのが、小川洋子さんの『風薫るウイーンの旅六日間』。
「ベッドのために特別にあつらえた、礼儀正しい置物」のような太った「琴子さん」を作ってしまった作者は、琴子さんという人物に引っ張られるように物語を進行します。
小川洋子さんは描写がこのようにクールでファンタジック。自らあえて描写に引っ張られることで、読者も巻き込んでいきます。
所収されていませんが、妊娠した姉とそれを眺める妹を描いた小川洋子さんの芥川賞受賞作「妊娠カレンダー」では、当初姉の異常さを軸に物語が進行するが、そのうち妹のほうのなんとも不気味な異形性が際立ってきます。
小川洋子さんは創作ノートで、その憎々しい妹を書いていると、書き手の自分自身も嫌悪感に襲われてたまらなくなったといいます。
しかし、作者自身も手に負えなくなるほど登場人物が勝手に動き出したとき、むしろ作品はよいものになり、小説を書くことの醍醐味を味わえるとも記しています。
作家が物語作りをやめられないのは、当初の設計通りにコトが運んだ快感ではおそらくないのではないか。
「うまくいく」こと以上に興奮するものがあるのです。
物語が自分の手を離れ、登場人物が生き物のように勝手に動き出す感覚。何ものかが降りてきて自分の力を超えたものを表現しているような陶酔感覚。
「何ものか」はいつも唐突に降りてくる。
あるいは、あのとき降りてきてたんだと後になってわかる。
撮影現場が大好きな黒澤明も、目論見通りに撮影が進んでいると逆に不機嫌になりました。
わかりきった自分を超えられないという退屈。
これにうんざりするのです。
何事も、うまくいっている、と思っているときこそ、すぐそばに恐るべき退屈の大穴が待ちうけている。
そう思っておいたほうが良さそうです。
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