先日の読書会コミュニティで、思わずイヤなことを思い出してしまい、頭から離れない。
ハルキのこと。
世界の村上春樹さん。
だいたい、純文学小説1作品だけでですよ、数百万部出るなんて。数は「人間失格」に匹敵、それを数ヶ月で達成したりする。
それも、ハルキはガチの1強。もしかすると、他の全日本人の現代純文学作家の、全作品を集めても届かないんじゃないか?
そんなことない、と、誰か言ってくれ。
ハルキはMacみたいなものかもしれない。
かつてMicrosftのWindows95が津波のようにすべてを飲み込もうとしたとき、Windowsの出来に関わらず、ただ「Microsoft の占領がイヤだ」というアンチ心理が、却ってMacintoshを救ったのでした。
アンチ巨人がおしかけてメシが食えた弱い阪神タイガースと同じだって?
当初は確かにそうだったけど、今や阪神タイガースは、観客動員数は両リーグ中でトップじゃないか。野球を知る前に阪神ファンになっちゃってるほどだ。
Macだって、「業務用」に墜ちていたところが、スタバでリンゴマークを白く光らせたいスノッブな連中の必須アイテム化に成功。恥を知る上はスタバに持ち込めなくなった、と悩むナイーブなオトナのために、大胆にも「黒いリンゴ」化したのがまたウケて、数々のスキン流通に見られるように、サードパーティをも潤す一大ギアに。
しかし、ここで大転換が起こっている。もはや誰もMacをパソコンだととらえてない。ロクに使えないのに携えているだけで満足できるファッションアイテムなのだ。
やはりそうだった。
ハルキはすでに文学ではない。
ハルキが文学であるなら、数百万部も売れるハズがないでしょ。つまり、ハルキは文学ではない。いや「本」でさえない。
ハルキは2つの罪を犯した。
純文学を文学であるまま、文学でないものにした。
大衆のものではなかった、大衆的でないからこその純文学を、そのまま大衆の手にできるものにしてしまったヤツ。
これがハルキの一つ目の罪。
もうひとつは、「オレ・アタシにだって書けそう」と思わせた罪。
「Macなら、オレでも何か生み出せそう」
これだ。
この、読む人より書きたい人の方が多いんじゃないかという日本の異常な文学的活況。しかし読書経験なしに書くもんだから、何が独創なのかしっちゃかめっちゃか。
なぜそんなに、何が「オレにも書けそう」な文体なのか。それにはヒミツの創作法がある。
英語が大得意のハルキは、全作品ではないが、作品を新しく書くとき、まず英文で最後まで書き上げる。それを自分で日本語に翻訳しながら作品にするっていうんだぜ。
なんてイヤなヤツなんだ。
そんなアクロバティックな作品を読まされていたのか。
そりゃ、英文を和訳しようとしたら輪郭のはっきりした言葉しかでてこない。奥や裏という立体感がないから、誰でも書けそうな文体になるわな。
それに、元が英語なんだから、外国語への翻訳もしやすい。
なーんだ。ハルキが世界で読まれるのは、翻訳しやすかったからなのか?と、なんだかとんでもない虚脱感に襲われる。
うーん。ここまでぶった切ってしまって、やっと気分が落ち着いてきた。
いくら吠えてもMicrosoftやMacは揺らがないし、Googleやトヨタも微動だにしない。おおらかに受け止めてくれる。
この、何を言っても許される安心感。
ハルキさんも、そうだよね?
そう期待しながら、部屋にずらりと並んだハルキ本を苦々しく眺めながらこんなことを書ける昂奮と癒し。
今日も、新しく出たMook「BRUTUS特別編集 合本 村上春樹」をポチってしまう、Mac好きなオレ。
オレってなんてイヤなヤツなんだろう。
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