こちらの都合や欲望におかまいなしに、そこに「冷たく」ありながら、しかしこちらをじっと見つめている。
この得体の知れないもの。
それが「自然」という存在。
対して「人間」はたかが得体が知れています。
相手は、敵なのか味方なのか。
人は互いの得体についての関心は、どうしたってそこにしかないのですからね。
■「家守綺譚」(いえもりきたん) 梨木香歩/新潮文庫
『家守綺譚』は、自然やこの世のものでない存在がどんどん「得体」を現す物語。
例えば、庭の1本のサルスベリの木。
留守宅を守ることになった新しい主・文士志望の綿貫征四郎は書きものの悩みがてら、庭に出る度にサルスベリの木の肌をぬるりと撫でていた。
するとそのうち、木がどうにも彼に惚れだしてしまう。
サルスベリの木が、です。
さて木の気持ちを察した征四郎。
お気に入りの本を木に読み聞かせてあげることにするという始末。
はたまた、この世にいない元の家主・親友だった高堂が、芦の水辺が描かれた掛け軸の絵の中に現れ、船を漕いで近づいてくる。
キイキイと音まで立てて。
それを目にした征四郎と船上の高堂とのかけあい。
これがふるっている。
*****
「どうした。高堂」
私は思わず声をかけた。「逝ってしまったのではなかったのか」
「なに、雨に紛れて漕いできたのだ」
高堂は、こともなげに云う。
*****
どうしたもこうしたも、この本ではすべてが万事、このようにあるがまま。
大正を思わせる時代を舞台に、少し古風にして軽妙なその語り口が、「ヘンなモノ」と「マトモなモノ」との境界をやすやすと取っ払ってゆく。そして次つぎに現れる異形たちには、ただただ、くすっと笑うしかない。
およそこの連中ときたら、何かのためにそこにいるというような、息の詰まる気配が一切ない。なんとも心地よい、愛すべき風情をまとっているのです。
自然とまみえることを信条とする梨木さんは語ります。
自身の内面を掘り続けても、閉じたナルシズム(自己愛)が待っているだけ。その先に出口はない。自然はそんなものに目もくれない。
自然のもつ冷酷=無目的なリアリズムに触れていけば、無理やりにでも自己が開かれる場面に遭う。
最も近い自然といえるのが自分の身体。
コイツを通してしか世界を感じることができないのがいつも困りものだったんだ、と気づきます。
コイツだって、敵ではないけれど、けして味方でもないのでした。
この本を読んでいる最中、得体の知れないものたちがそこら中にいる気がしてきます。
でも、不思議とびくびくなどしない。
彼らは、味方ではないが、少なくとも敵ではなさそうだからなのでしょう。
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