聴いていると自分もそれを演奏したくなる・演奏している気になれるものが良い音楽の一つの条件になるかなと思います。
良い文章もそうですね。読んでいると、こういう文章を自分も書ければなあという思いが湧き上がる。
「駅ピアノ」というのが最近各地にあります。
人通りのある街の一角にポンとピアノが置かれていて、誰が弾いてもいい。昔ピアノを本格的にやっていた人から、我流でずっと弾いてきた人などなど。
誰に聞かせるわけでもない、しかし聴いている人はいるという変な場。
この駅ピアノをレイ・ブライアントが弾いていたら、聞き心地のよい音にふと立ち止まるといった趣きをイメージします。そして、ピアノを弾けないのに自分の指が自然と動いているのに気づく。
早弾きオスカー・ピーターソンでは、「ああ、かなりのウデ自慢の人が自己顕示欲で弾いてはるなあ」だし、セロニアス・モンクなら「昔ウデをならした人が腱鞘炎でピアノあきらめ、悔し紛れに酔っ払って弾いてはるなあ」となりますかな。
かのビル・エバンスであれば、立ち寄るのはきっと夜。誰もいないときを見計らってそっと椅子につき、雨がふってきたりして、とつとつと音量低めに弾きはじめ、気づかず周りにいる人たちの眠りを誘うのでしょう。
彼は白人なので黒人の真似を卒業したあとは、内省的なクラシックを持ち込んで、ジャズピアノに独自の世界を開きました。
「汗とコク」のオスカー・ピーターソン、「寝室に飾る静かなフランス絵画」のビル・エバンス。
どちらも「あんた聞かんでも別にかまわん、俺はどうしてもこうなる、しゃあない」感のほとばしり。
これに対し、レイ・ブライアントは、その間にあって、瑞々しくそつなく「今日もおつかれさま。さあさ、とにかくお茶を一杯」とどこまでもやさしく語りかけます。聴いてくれる人がいると心楽しくなるピアノ弾きといった様子。聞き手の心持ちをいつも意識しているような優しさにあふれています。彼自身の性格もおそらく優しい人だったのではないでしょうか。
本国アメリカでは音楽の世界でもとにかく自己主張の強いことが必須です。例えばマル・ウォルドロンのような非常に内向的な音楽の人は、ついにアメリカにいられなくなり、欧州や特に日本でのみよく聴かれたのでした。
レイ・ブライアントも日本で人気です。
レイ・ブライアントのこの「レイブライアント・トリオ」は、黒人的なコクがありながら開放的なしっとりした端正さが特徴。音数がつまっていない風通しのよいピアノは、一日のオリを心地よく洗い流してくれ、涼やかに今日を終えることができるのです。
コメント